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Maurice Sendak sought out Spike Jonze personally to direct the movie.
Where the Wild Things Are (2009)
、というリブログを読んで、大分、「誰かに認められたい」という感情に対して理解したというか。
この誰かに認められたい、というのは、ずっと「評価されたい」「一目オカれたい」というかなりレベルの高い感情だと思っていた。実際のところ敷居が高すぎた。
悪口を言われるより、無視されるほうが応えた。(これはLoLで気づいた
よくよく考えてみると、ただ自分の存在を認められさえすればよかった。他人の脳みそが自分を知覚していればなんでもよかった。
存在を認めるというとなんだか大層なもんだが、要は誰かとコミュニケーションできる状態を常にもっておきたい、というか。
他人のうわさ話に、自分が登場すれば(たとえ悪口であろうとも)良いと思えるなう。昔は、かなりイヤだった。他人に認められるとは、評価されることだと思っていたからだ。
つまり、対戦ゲームというのは良質な連続的コミュニケーションなのです(飛躍
チャットも途切れるとどうにも二の次というか、一時的に無視されているというか、どうも落ち着かないものですが、対戦ゲームで相手と面と向かってる状態は多分ずっと相手に認識されてるよね。対応型のタイプの人は相手のキャラだけずっとみてるもんだよ。
六命ヘレンといった静的なゲームでも、相手を穴があくほど見るよね、存在をイヤでも認めて、勝ちたいから死ぬほど研究するよね。理解しようとするよね(これは最近対戦相手のついったーをみておもった
たぶんそういう手順を踏んでる限りは世の中は平和なんだとおもう。礼儀のある世の中なんだとおもう。
ただまぁ、相手の存在を認めてから悪さをするケースとかの話は、まぁいいや。そう考えるとこれも性善説なのかなーとかはどうでもいいや。
ともかく、相手に存在を認められることが第一なのであって、だから「嫌われてもいいから相手にとっての自分の存在を大きくしろ」というのが落とし神様のテクであったり、行動することが正義みたいな話や、ウェブデザイナーはリンクを貼るとか、そういういろいろな話に個人的に納得がいったのです。
たんぶらにまとめようと思ったらたんぶらでちらかってしまった